読者投稿作品 「母の稽古」  兵庫県加古川市 奥村総

 私は関西に住む62歳の造園業者です。若い頃スポーツに打ち込んだお蔭で、還暦を越えた今でも地域の青少年育成のお役に立たせて貰っています。これも子供の頃に生来の引っ込み思案を母から厳しく直されたお陰です。その母は昨年84歳で亡くなりましたが、息子の想い出話を笑って許してくれるでしょう。

 それは昭和28年の秋の事です。私は姫路市郊外の農村の小学6年生でした。その年の春まで神戸で暮らしていましたが、父が病気で亡くなったので母は私を連れてその村に帰り、祖父母を助けて家業の農業に精を出していました。
 秋も深まった10月の或る日の事。私は先生から4 日後に迫った運動会に学級対抗相撲の選手として出場するように、と言われました。
 選手に択ばれていた級友が柿の木から落ちて膝を脱臼したので、その代わりに身体が大きい私が択ばれたのです。転校生の私が早くクラスの仲間に溶け込めるようにとの先生の配慮だったと思います。でも気の弱い私は泣きそうになって断りました。先生は「そうか・・・」と言って残念そうでした。

 その夜、畑仕事から帰った母と祖父母との夕食の後、祖父母が別棟に寝に行くと母は改まって「さとし、今度の運動会の相撲に出やへんのか」と口を切りました。私は先生が母に話したなと思いながら「・・・うん・・・そやけど、相撲弱いもん・・・」と言い掛けると母はキッとなって「男がそんな気の弱い事でどうなるいな! よし、稽古付けてやるからふんどし持って来よし!」と言いました。

 男勝りの母は言い出したら聞かぬ気性ですので、私はおずおずと自分の部屋から川遊びに締める晒の六尺を取り出して来ると母は意気込んで納戸から父が浴衣の時に締めていた黒い兵児帯を持ち出して来ました。母は色白のぼってりした体格で当時としてはちょっとした大女でした。
 日頃は目立つ事が嫌いで無口な性格でしたが一本気でいささか我武者羅なところもあり、村のおばさん仲間からも一目置かれていたようです。期待の一人息子が身体だけは大きいのにからきし気が弱いので母は情け無かったのでしょう。
 相撲の盛んな土地なので母の弟達も若い頃は村相撲で鳴らしたそうですから、母は女ながら相撲には詳しかったのでしょう。気が立っている母は茶の間で浴衣と腰巻を脱ぎ捨て、くるりと背中を向けて手早く兵児帯の褌を後ろ手で締めるとやおら暗い土間に降り立ちました。

 気の進まない私がのろのろと六尺褌を締めて土間に降りると母は「ええか、さとしは腰が弱いから組んだらあかんで、相手に組ませんように始めから一気に突いて行け」と言ってさあ、と中腰で構えました。
 私は夢中になって母の白い胸元を突いて出ましたが、母は「そんなこっちゃあかん、もっと力いっぱいに思い切って! 脇を締めんと組まれるぞ、脇、脇!」と満面に朱を注いでハッパを掛けます。
 でもとうとう最初の晩は仁王立ちの母に圧倒されてどうしても力を出し切れず、不面目な結果に終って終いました。
 その夜中ふと目を覚ました私は、仏壇に向かってじっと座っている母の姿にハッとしました。胸の奥で熱いものが込み上げたのはその時です。

  次の日、私は先生に「相撲に出ます」と言いました。私の気配から何かを感じたのでしょう、先生は「そうか」と満足そうでした。
 その晩、宿題を終えた私が褌を引き締めて二階から勇んで降りて来ると、洗い物をしていた母はよっしゃと笑って兵児帯を取りに納戸に入りました。その晩の私の意気込みは自分でも前の晩と大違いでした。

 母は私の最初の力一杯の突きに「ほう!」と言って二三歩踏み下がりましたが、「そこや! そらもっと突け!」と目を輝かせて叱咤する母に自分でも驚く程の力が出て、大柄な母を何回かずるずると後退させたほどでした。汗みずくになった母は終わると褌を解きながら「ようし、強うなったな!」と満足そうでした。

 三日目は稽古の仕上げの日です。母も「今日が最後や、ようし来い!」と意気盛んです。力一杯の私の突きは何回か母を土間の隅にずるずると押し詰めました。

 お終いに「これが最後や、思い切って力を出して見い!」と言われた私はとうとう力余って母を土間に突き転ばせてしまいました。

  私と組みあったまま土間に転がって泥まみれになった母は上機嫌で「これでええ! 明日はしっかりやるんやで。」と言い残して汗と泥で汚れた褌を外し井戸ばたで身体を洗いに裸のまま外に出て行きました。
 さて翌日の運動会、生まれて初めて相撲廻しを締めた私はライバル学級の大関を一気に突き出して見事にクラスを優勝させ、それに続く五人抜きも突きの一手で栄冠を勝ち取り全校、全村の拍手喝采を受けました。
 土俵際に敷かれたござの上に正座して私が勝つ度に白い歯を見せてニッコリ笑った母の顔は忘れられません。

  翌年進学した中学とその後の農業高校には相撲部はありませんでしたが、柔道部で私も黒帯を戴いて活躍しました。それ以来地域の皆様にスポーツで名を知られ、人生を前向きに生きています。

 我が子とは言え女として気恥ずかしい姿を敢えて晒した母に有難さで胸が一杯です。ほの白い裸に黒い褌を締めて暗い土間にすっくと立った母の姿は忘れる事は出来ません。                    
 
 

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