◆ その1 ◆
 
X氏 プロフィール
1929年博多生まれ。国学院大学史学科卒業後、関西の大学で近代史を教える。1998年に教職から引退、現在は北九州在住。関西民俗学会会員。
 
「女性の褌について」
 

Q: 日本では女性が褌を締める風習はありましたか?

A: 一般的にいえば生理帯でしょうね。褌と同一視する事には疑問もありますが。その時代とお国柄でいろいろと形式が違いましたが、一番広く使われたのは越中褌タイプでした。江戸時代の川柳で「越中を女房がすると事(セックス)が欠け」…とあるのはそのことを詠んだものです。腰帯に前後をはさみ込む形やもっこ褌の形もあったという事です。
  越中方式が何時まで使用されたかはっきりしませんが、おそらく地方によっては戦後しばらくまで使われたのではないでしょうか。都会では女学校の制服の洋服化で大正時代の後半からゴムバンド式の生理帯が売り出され、若い女性に使われ始めました。
  昭和2年に亡くなった作家・芥川龍之介の作品に道端で生理帯の空箱を見て友人と「若い娘のかな、女中かも知れないよ」と話すところが出てきます。和服の場合にも普及し始めていたのでしょう。

 
「それ以外の場合」
 

Q: 生理帯以外にはありましたか?

A: 後で触れますが、女侍(武士の家柄から選ばれて大奥などの警護に当たった女性)が実戦的な乗馬の訓練を受ける時は乗馬袴で鞍に跨る男乗りだったので下着には六尺褌を締めた筈です。一般の女性は横乗りでした。
  事情は違いますが、江戸時代の黄表紙という娯楽本には盛り場の的場の弓取り女が褌一本の裸体で客を呼ぶ姿とか遊郭で娼妓に褌を締めさせて相撲を取る挿絵などが残っています。ですが実際にあったかどうかは分かりません。

 
「時代劇の男装」
 

Q: 時代劇に見るような男装の女性は実際に居たのでしょうか?

A: 江戸時代は男女の服装の区別が厳然として守られました。それには封建制の根本理念である男女別々の秩序を守るという事と江戸への「入り鉄砲と出女」を厳しく規制する目的がありました。つまり幕府の人質になっている地方大名の妻女が男装して江戸を脱出することを警戒したのです。その為に箱根の関所では若い男性の局部を検査する専門の係がいました。
  しかし江戸時代も後になるほど幕府の威厳が薄れ、女人禁制の高野山でも寺小姓と称して女性に「ふんどしをかかせ」男装させて寺社奉行の目を欺いたと民俗学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす)の著作に出ています。
  深川芸者が女性に禁止されていた羽織を公然と着て「羽織芸者」の名前で売り出したり幕末の「ええじゃないか」騒動で女性の一群が男装して褌を締めたお尻を堂々と見せて街道筋を練り歩く、という事も起こりました。
  女性の少数派ですが、女侠客や大工、左官など男勝りの仕事をする女性には場合によって男髷の男装も許されたらしいです。なお前述の女侍は日常の城中での勤務は女性の服装でした。 

 
 

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