◆ その2 ◆
 
「女性の水泳」
 

Q: 女性の水泳について教えてください。

A: 海女村は言わずものがなの事ですが、明治時代に入ると隅田川に古式泳法の水泳教室が開かれた事をきっかけにして文部省の後押しで正式な泳法を小学児童に教える運動が全国的に広まりました。男児は褌、女児は湯文字(短い腰巻)で泳ぎました。古式泳法の女性師範は海女の磯着に似た流派独特の和風水着でしたが、大正時代からワンピースの洋風水着を着るようになり、教わる女児も大正の終わり頃には都会では海水着になりました。
  戦国時代に女の乱波者(忍者)が褌一本で夜川を泳ぎ渡って敵兵を刺したなどと戦記物に出てますが、真偽は分かりません。

「明治時代の女児の男装」
 

Q: 明治時代に女児が男装する習慣があったと聞きますが。

A: 私が知っているのは明治初期の九州です。84歳になる家内の叔母が健在で時折り昔の事について教えて貰うのですが、叔母がその母親から聞いた昔の話をご紹介します。
  叔母の母親は明治15年に熊本で生まれたのですが、その当時の熊本は女の子が生まれると小学校を出る頃まで男装をさせた家庭が多かったということです。この子が男だったら、という親の願望だったのかも知れません。男児と同じ服装で頭は男髷に結い12歳になると正式に褌祝いをしたそうですから、高学年では下着は六尺褌だったのです。
  有力な士族か郷士の家柄で大事に育てられたので、気性も男の子のようにきっぱりとして普通の女の子が憧れ、今の宝塚のスターのようだったそうです。叔母の母も親に男装がしたいと頼んだのですが、「ええし(良い家柄)で無いから」と許してもらえなかったそうです。
  明治元年に熊本で生まれた作家・徳富蘆花(とくとみ・ろか)の随筆に少年時代に遊び仲間の男髷の女児と戯れた想い出があります。お尻を抱くと六尺褌の結び目が着物の上から手に触れたそうです。
  肥後熊本は尚武の気風が強く、肥後藩の女侍は武術で有名でした。特に幕末のイギリス艦隊の鹿児島砲撃をきっかけに武術全般に力を入れ、殿様のお声掛かりで城内に土俵を築き大阪相撲の力士を招いて女侍に相撲の稽古をつけさせました。紅白の幔幕を張りめぐらした土俵で白い締め込み姿も凛々しい女力士が晴れの技を競う、という御前相撲は幕末の肥後藩で実際にあった事です。
  明治維新を迎えて女侍達はそれぞれ士族の娘に戻って嫁入りしたり、女学校の先生になったりで中にはアメリカに留学した人もありました。
  話は変わりますが、明治大正の有名作家の某氏は日記の中で夫人の事を「ふんどし女史」という愛称で呼んでいます。理由は解りませんが、広大な屋敷の庭を裸になって二人で散歩するのを好んだ事と関係があるのではないのでしょうか。ちなみに世田谷のその屋敷は、現在東京都の記念公園になっています。

 

「生活上の女褌」

 

Q: 実生活の上で女性が褌を締めた事はありますか?

A: 私が子供の頃、父は商店主で若い店員が大勢住み込んでいました。戦争前の事ですが、田舎から来たお手伝いさんが夜寝る時に六尺褌を締めているのに母が気付いてその理由を聞くと、「男衆がたくさん居るから用心の為に」と答えたそうです。奉公に出る時に母親が注意して持たせたのでしょう。
  明治中期までの沖縄では、地方によっては女性は越中褌の前後を反対にしたような下着をつけていたそうです。労働着の裾が短かったからでしょう。

 
「芝居の女褌」
 

Q: 芝居で女役者が男役をする場合はどうしたのでしょう?

A: 放送作家の永六輔氏がお年寄りの役者から聞き取った話をまとめた本によると、明治大正に多かった女芝居では男役の女役者は六尺褌を締めるのが当たり前だったそうです。内股からお尻までべったりとお白粉を塗るとお尻が見えても「男」と言う名目でその筋から見逃してもらえたのです。女役の裾のチラリズムは警察に禁止されていましたが、「男」の魅力で男女のファンにサービスしたのですね。剣戟の場面ではおおっぴらにお尻をまくって見せて観客の受けを狙ったのでしょう。 

 
 

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